引退しました

大学4年生、野球一筋できた「息子その2」が、引退する日がついにきました。

野球を始めたのは、小学校の3年生。そもそも、全然のりきじゃなかった。お父さんが単身赴任中だったので、週末の過ごし方をちょっと変えてあげたいという母心からだったのでした。「野球とサッカーと、どっちがいい?」ときかれて、地元の「サッカー親子鷹チーム」にはついていけないという直感があったのでしょう。「じゃあ野球…」という程度でした。

楽しい思い出もあるから、中学校でも野球を続けたのでしょうけれども、コーチも監督もみんな誰かのお父さんなわけで、さびしい思いもしていたでしょう。球技に特別の才能がある様子もなく、なんとなく週末グランドで過ごす習慣ができたということ。それだけれも、母親がしてあげられなことがたくさんあって、とてもよかったと思っています。

お兄ちゃんの通学の都合で他県へ転校することになり、少年野球も5年生で突然終わりをつげることになりました。越した先にも、野球チームがなかったわけではありませんが、「そういう熱意」みられなかったので、何もせずに小学校を卒業。

中学で軟式野球部に入ったときには、母親としてはちょっとびっくりしたものでした。それから、中、高、大、10年近く、(軟・硬・軟・準硬)と変遷はありましたが野球人生キャッチャー一筋。よく頑張りました。

団体競技ですから当然ですが、運動機能はいうまでもなく?チームワーク(というより人間関係)のお勉強はたっぷり十分なのではないかと、人生に太鼓判です。

最後の1年は、学生コーチとやら。その気苦労は筆舌に尽くし難し?とぼやいておりました。お疲れさまでした。そして、泥にまみれてきたユニフォームのお洗濯も、今日で最後。

感無量でございます。

色々と関係の皆様には、大変お世話になりました。この場で申し上げても、どなたにも届かないと思いますが、厚くあつく御礼申し上げます。

そして、ごっそりと着古した野球着関連を廃棄処分?しばらく忘れたいような気持もわかります。おとうさんが、キャッチャーミットだけずっと持っていたのは、「いつか息子とキャッチボール!」という、絵が心の片隅にあったからでしょう。そうやって、草野球魂だけが、代々受け継がれていくのなのでしょうね。

何人もの選手を育成しては捨ててきた、あのゲーム「パワプロ」。野球って人生そのもの、って感慨にふけりたい。でも、ここから先が本番かもしれません。